デオドラントされた風景(『TOKYO SUBURBIA』ホンマタカシ)
ここ数年、僕の頭から離れない一人の人物がいる。その人物とは今更ながらと思われる知れないが、自身の漫画の破天荒さよろしく交通事故に会い、現在も療養中のマンガ家岡崎京子である。岡崎マンガの発見は、ここ最近で最も刺激的な出会いである。
高校生のころ大阪でタコヤキライフを送っている僕が、TSUTAYAでレンタルしてきたヴェルヴェット・アンダーグラウンドのバナナジャケットのCDに入っていた名曲「Heroin」を聴いた時みたいに僕の頭をぶち抜いた。こっちはタコヤキ、向こうはヘロイン。自分の出生地を恨んだ。
岡崎マンガに出てくる、すぐSEXでも殺人でもしてしまう少女達の行動は、男の僕からしたらショックで信じられないし、信じたくも無い。毎回読むたびに胸が痛くなるし、乱暴に扱われる肉体を見るのはツライ。しかし、何故か何度でも読みたくなるのだ。岡崎京子が関係しているものなら僕は何でも読みたいし、不可能だと思うが新作も読みたい。ずっとスポーツに明けくれていた高校時代は、『東京ガールズブラボー』のような生活とは真逆で、運動して食べて寝るシンプルな生活だったが、もしその頃、岡崎京子の漫画に出会っていれば、違った毎日を送っていたのかもしれない。
『東京ガールズブラボー』中にに入っている日本の知のカリスマ、ニュー・アカデミズムの雄、スキゾキッズことブリリアントな浅田彰と岡崎京子の対談の中で浅田は「常に押し寄せてくる興奮や、高揚感、そしてそれと裏腹にいつもある使い捨てられることへの寂しさ」と岡崎マンガの特徴を的確に説明している。
そんな岡崎京子の作品世界と、同時代の空気を表している写真家が、ホンマタカシである。
東京の郊外を見事にサッパリとタンタンと撮影し、木村伊兵衛賞を射止めた写真集、『TOKYO SUBURBIA』は、日本の写真のこれまでのイメージを変えた。そこに写っている風景は、『突破者』を書いたアウトロー作家宮崎学なら、「デオドラントされた風景」と言うだろう。漂白されてサッパリしている明るい街路は、なんらスペクタクルや、決定的瞬間は無く、いつでも、どこにでもありそうな風景が続く写真集。発売当時、大阪のLOGOSで僕はこの写真集を買おうか迷い、何度も店を訪れたのを思い出す。
岡崎京子とホンマタカシは、ホンマの初めての写真集『Babyland』での対談でその共通点を確認し合っているように伺える。ホンマ「本当はもっと濃く焼けるんです・・・」岡崎「やっぱりサッパリが好きなんだ・・・」この対談の中でのサッパリと言う言葉に、これまでの写真家や、マンガ家との感覚の違いを双方に感じる。あえて岡崎とホンマの違いを言えば、岡崎の持っている壊れた感じや絶頂感を、ホンマの作品には感じられない、しかし、あくまでも冷静なホンマの客観的な視線には、瞠目させられる。
ホンマは常に、暗室とかにこだわりが無いと言っているし、めんどくさいとも言っている。今では、ホンマは写真界の巨匠に成りつつあるが、今もそのスタンスは変わってない。アサヒカメラで毎号行われている対談の中での発言もその内容に変化は見られないが、ある写真家の広島での仕事についての会話で、歴史的なものや政治的ことに対して「ダサクテモやらなきゃいけないのかな」と発言しているのに僕は興味を覚えた。
ホンマタカシの写真集の頂点は『TOKYO SUBURBIA』でまちがいないが、今後これを超えるような物を見てみたい。ダサクテモいいじゃないですか。
『TOKYO SUBURBIA』
ホンマタカシ
初版 付録付 光琳社 1998年
¥38,000
林 裕司