ヴェルレーヌの詩に乗せて
秋風の ヴィオロンの 節がなき啜り泣き もの憂きかなしみに わがこころ傷つくる。 時の鐘鳴りも出づれば、 せつなくも胸せまり、 思いぞ出づる来し方に涙は湧く。 落葉ならぬ身をばやるわれも、 かなたこなた吹きまくれ 逆風よ
(ヴェルレーヌ「秋の歌」 堀口大學訳)
この胸に迫るヴェルレーヌの詩を、ぼくはブラッサイが撮った夜のパリの写真を見ると思い出す。19世紀後半から20世紀前半のパリに憧れるロマンチストな人にぜひ見て欲しい写真だ。天才詩人ランボーとヴェルレーヌがパリの街を練り歩き、カフェでアブサン酒を飲んで大立ち回りを演じ男色に耽り詩を書く。そんな19世紀の面影を残したパリの街頭やカフェの写真は、生まれた時から電気の洗礼を受け続けている我々に、ロウソクのやさしい光を見ている気持ちにさせてくれる。パリが世界の文化の中心だった時代の光の記録である。ブラッサイは、ヘンリー・ミラー等とつるんで夜のパリの街を徘徊し、有名人や娼婦、そして恋人達を撮り続けた。ミラーの『北回帰線』を読んだことがある人なら、小説の雰囲気をよりリアルにブラッサイの写真から感じられるに違いない。華やなパリには数えきれない程の有名人達が時を同じくして活動し、才能をぶつけ合ってそして生きた。ホモ・ルーデンス達のカフェでの立ち振る舞いや会話をハイビジョンの映像でモニター出来ればさぞかし楽しいに決まってる。もしボヘミアンな生活を20世紀前半のパリで体験出来るなら、僕はマジで死んでもイイゼ!
しかし現在、タイムマシーンが映画や小説の中でしか出てきていない事実をしっかりと心に受け止めて、ブラッサイの写真や、エコール・ド・パリにオマージュを捧げた作品などで僕は我慢する。特にジャック・ベッケルの『モンパルナスの灯』を何度も何度も繰り返し見る事にしよう。ちなみにこの映画のモディリアーニ像は最高だ!ブラッサイの写真は賑やかなカフェの写真とは裏腹に、孤独なヨーロッパの舗装された石畳が特に印象的だ。暖かいカフェを一歩出れば嫌がおうでも認識させられる圧倒的な存在感を示すこの石の固まりに、もう一つのパリの顔が見える。裏のパリの顔は、泥棒で小説家の男、フランスが生んだ世界をひっくり返した墜天使、聖ジュネの小説の世界に美しい物語として読む事が出来る。
パリからニューヨークに時代がシフトして、そして現在はTOKYOが世界の中心になるべきだと僕は妄信し続けているが、今だ答えは未知数だ。世界中の野心溢れた一攫千金を目指す男女はTOKYOでしなやかにその美しい細胞を燃焼させろ。
BRASSAI
PARIS DE NUIT
初版 AMG 1987
¥14,700
林 裕司