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ブログ - Words from Flying Books

メイド ・イン・ USA

United States of America,USA,アメリカ合衆国、米国、アメ公、ヤ ンキー。20世紀一番活躍したのは、やはりこの国にまちがいない。特に日本で生まれて日本に住んでいると全く疑いな くアメ公を信じてしまう。なんかパパって感じだ。アメリカ帝国の政治スタンスを嫌いでどうしようもない人は、世界に50 億人以上確実にいると思うが、文化の面では大好きって人は多いはずだ。だってボブディラン、マイルス・デイ ヴィス、そしてエルヴィス・プレスリーを生んだ国なんだからしょうがない。多民族国家のアメリカは伝統がないぶんスーパーボウルとディズニーでマインドが出来上がってるに違いない。中島らもが「パンクとは一つの精神状態だ」と言ったように、僕は「アメリカ国民とは一つの精神状態だ」と言いたい。 
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ロバート・フランクはスイス人、ウィリアム・クラインはフランス人、彼等が撮ったアメリカはビジターが発見したアメリカだ。しかし、ニューヨークでユダヤ系ロシア人として生まれたリチャード・アヴェドンはまさしく多民族国家にふさわしい血統だ。2005年に公開されたハリウッド映画『カポーティ』で主役のカポーティ役を演じるフィリップ・シーモア・ホフマンからアヴェドンの名前が口に出されたときは、何故かとても嬉しかった。自分の好きな写真家の名前が映画館のスピーカーから、予期せず聞こえてきて鼓膜を震わせたことに思わず笑みがこぼれた。これだけでも観に行ったかいがあった。         

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僕のアヴェドン熱は、初めてアヴェドンのドキュメンタリーフィルムを観て衝撃が走った18歳のころからはじまる。その一枚の写真の恍惚感は、他の追随を許さない。8×10で撮られた隅々までピントの合った恐ろしく解像度の高いそのモノクロームの写真は、神を描いたイコンに匹敵する程の荘厳さがある。アヴェドンの写真にはジャン・ジュネ、トルーマン・カポーティ、ヘンリー・ミラー、マルセル・デシャン、ロバート・フランク、マリリン・モンロー、その他大勢20世紀のお偉方の顔で一杯だ。しかし、アヴェドンの写真の中では、スーパースターも、油田で働いているブルーカラーの兄ちゃんも、大統領もみんな恐ろしいくらいに階級の差を感じさせない。企業の広告に一生出ないような肉体労働者の恐ろしく
美しいポートレートは、スーパースターをも出し抜いているし、コンプレックスになるようなソバカスが全身にある少女の皮膚が、観る者の心を動かさずにはいられない。いわいるロラン・バルトが言うプンクトュムだ。(少年の歯並びの悪さはプンクトュムだ。 注意*しかしこの感覚は主観的なものである)

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                                                          アヴェドンの写真集を観ていると、すごくポジティブな感覚になる。このような感覚に襲われる写真家は数人しかいない。オバマ大統領から宇多田ヒカルまで、世界のトップランナーを容赦なくアヴェドンの鷹のような眼が射抜く。それはアヴェドンに奪取されることと同じである。そう写真家とは、モデルの持っている外観を盗み金銭に変えるのが仕事である。しかし、これは幸福な盗みである。アヴェドンのような超一流のカメラマンに自分の土地を綺麗に盗まれるのであれば、本望である。誰も二流の国に攻めて来てほしくはないはずだ。やるなら、さりげなく、気づかないように、しなやかに、なんとなく、宝石を盗んでもらいたい。だまされるなら「立派な詐欺師」にだまされたい。(男性でも女性でも)

最後にどうしても言いたい事がある。アヴェドンの撮ったジュネの写真を見ると、ジュネの着ているアウターはボロボロで、なかに着ているニットらしきものは穴があいている。これを見て僕はすごく感動する。あぁ、やっぱりジュネだ。小説と同じだなとうれしくなり、ジュネ書いた美しい物語を思い出す。
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『IN THE AMERICAN WEST』        
Richard Avedon
プラカバー Abrams 1985
¥20,000                      
         

林裕司

2011 年 11 月 4 日 | comment
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部屋とクリエイションの関係

最近、Mark BorthwickやSusan Ciancioloなどアーティストの部屋の写真とインタヴューが載っている本を買いました。
Markの部屋は、NYブロンクスの荒廃した家を何年もかけて自分で改装し、たくさんの窓から光が降り注ぐ、とても気持ち良さそうなところ。Markの愛する古い家具や小物に囲まれて、庭と部屋とが一続きになっているような空間です。ここで写真を選んだり、音楽を創ったり、料理をしたり、友達や子どもと遊んだりするだろうなぁと思うと、本当に素敵な空間でうらやましい限りです。
Markの創る映像や音楽に触れると、自然のなかに身をゆだねて、たとえば川面にキラキラと反射する光や木漏れ日を身体で感じるという追体験をしているかのようですが、日常からすでに光があふれるところなのでした。

数年前、青山でMarkのライブを見に行ったとき、夕方、突然スコールのような雨が降り出し、それでもライブは続いていたのですが、あっという間に雨は止んで、空に二重の虹がかかりました。観ていた人たちは歓声を上げて写真を撮ったりしていたけれど、Markはうれしそうに気持ち良さそうに、いつもとあまり変わらず歌を歌っていました。自然のありようをいつも身近に受け止めているのかなと思いました。

ファッションの世界にいながら、きらびやかで移り変わりの激しいモードとは正反対の歩みを続けるMark Borthwick。1988年のデビュー以来「アンチモード」を掲げて、ストイックでありつつも手仕事のあたたかみを感じるデザインを発表していたマルタン・マルジェラ。そして、優れた審美眼で魅了するエレン・フライスのPurple Books。三者が有機的につながった1990年代終りの時代は、インディペンデント精神にあふれていて、既成概念やジャンルにとらわれず、自身の信念に沿って行動する勇気を与えてくれたと思います。それも、肩肘張らず、とても自然なやり方で。時代が変わっても、この清清しい感性は生き続けてほしいものです。

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アントワープファッションの先駆けであるメゾン マルタン マルジェラの1998-99年秋冬のカタログとして刊行された写真集。帯にはマーク・ボズウィックの手書き文字。帯付できれいな状態のものは、入手困難。
『“2000-1” Maison Martin Margiela』
Mark Borthwick
SC 帯
Maison Martin Margiela 1998年
SOLD

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Purple Booksから刊行されたマーク・ボズウィックの写真集。初期のPurpleはこんな小さな版型のものでした。(15×10.6cm)
『Are Plants People?』
Mark Borthwick
L’Esprit Frappeur, Purple Books 1999年
¥9,500

Uehara

2011 年 7 月 23 日 | comment
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グーグルアース以降の世界で

10代から20代前半にかけて僕の全ての物事への判断は、見た 目が、「クール」か「クールじゃないか」の二進法で判断された。その他のことは、(意味とか、思想とか文脈など)そんに重要では無かった。むしろ思想や哲学も「クールか」か「クールじゃないか」が重要だったし、今でも根本的な判断の基準は変わらない。世の中が白か黒ではなく、カオスだということに気づきながらも、二進法の犬みたいに世界を判断していた。

「クール」だと思うものは、人によって違うので、なかなか理解し合うことが難しい。こないだ写真や美術にあまり詳しく無い知人にティルマンズとラリー・クラークの写真集を見せたら、「何がいいか分らないし、意味が分からない」「これって、カッコいいの?」と聞かれた。僕は唖然として開いた口がもっと大きく開いて、そいつを食べてしまいたかった。今後この友人と僕が会うことは無いだろう。(相手もそう思っているはず。)

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今、日本の写真家でもっとも「クール」で最先端な作品を作っているのは、松江泰治だ。(彼を「クール」だと言うのには賛否両論あると思う。ちなみに僕は「クール」だと思っている。しかしバロウズやラリー・クラークのような「クール」とは少し違う)彼の中心を欠いた丁寧に地平線が排除された写真はアンビエント・ミュージックのサウンドのごとく、パブリックな場所や、モダンな建築物の中に設置されれば非常に相性が良い写真だし、カフェやレストランに飾っていても気にせず食事にありつけるぐらい気にならない。この点を指摘してミニマムな作品を毛嫌いする人は、噛み付いてくる。「インテリアなんじゃない?」とか、「家具のような作品」とか「存分に荒れ狂いたい魂が感じられない」とか。確かにこの指摘は、半分当たっているし、半分は誤解だと思う。ミニマムな作品に潜む魅力は、その厳粛に守られたルールによって際立つ。例に上げるのには違和感があるかもしれないが、拘束のドローイングで知られるマシュー・バーニーの作品には、限界が設定されているだけに、排除されたエネルギーが視覚化されてなくとも想像力を刺激してやまない。キリストだって、十字架を背負って歩いている苦役の姿が、二千年もの長い間、人々の支持を得てきたのだろうし。もっと簡単に言えば、コンサバティブな女性がなんで男にモテるかということにつきると思う。不感症に思える女ほど、想像力をかき立てるのだ。

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松江泰治の写真の魅力は、彼の視点の距離の捉え方にあると確信する。彼の写真集に「CELL」というカラー写真で世界を俯瞰で撮影したものがある。最小単位(細胞)というタイトルが表すように極端にトリミングされて浮き上がってくる画像は、我々人類の生活が、距離を置いて見れば非常にコミカルなものであることに気づかしてくれるし、画像はまるで初期のファミコンみたいにカワイラしい。顕微鏡で見える微生物が人間にはちいさい生物に見えるかも知れないが、ちいさいのではなく、距離があると考えると少し世界が違って見えてくる。松江の写真がグーグルアースに酷似しているのは誰が見ても分ると思うし、それゆえに興味深い。最近の松江のほとんど動かない映像写真?は、来るべき写真表現の課題を浮き彫りにしている。今後モニターが開発され続ければ、紙のようなモニターが現れるのにそんなに時間はいらないはずなのは眼に見えているし、映像と写真の区別は恣意的な意志によって決定する自覚がよりいっそう重要である。

グーグルアースという人工の眼が世界を外側から覆い尽くし、地球全体を監視体制に置き、携帯電話にカメラ機能が内蔵されて、ビデオとカメラの境界線が曖昧になり、決定的瞬間が無くなっている現在。そもそも、撮影行為自体に意味があるのだろうか?いや、写真家という存在自体が必要なのだろうか?
かのリチャード・プリンスはすでに70年代後半に写真をもう一度写真に撮るという作品を一貫して発表し続けているし、音楽の世界ではサンプリングに、もはや違和感はないだろう。そう、全ての世界は写真で出来ているのだ。脇を閉めて前に出ろとかいうマチズモ全開なカメラマンや、フォトグラファーは、早々に歴史の舞台から退場していただきたい。アディオス !

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『hysteric MATSUE Taiji』
松江泰治
初版 Hysteric Glamour 2001
¥52,500

林 裕司

2011 年 6 月 24 日 | comment
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隣の芝生は青かったか?

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「黄金の腕」や「悲しみよこんにちは」などの映画のオープニング・タイトル・デザインや企業ロゴなどで広く知られる、ニューヨークのグラフィックデザイナー・ソール・バス(1920年 - 1996年)の仕事の中で、世界中の絵本コレクターが探しているといわれる絵本があります。それが、『Henri’s walk to Paris』、ソール・バスがデザインした唯一の絵本と思われます。henriswalk1

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主人公のHenriくんは、フランスのReboulに住んでいて、パリに行きたいと夢見ているのですが、本でパリのことを知れば知るほど、思いが募り、ある日思い立ってパリへと向かいます。
60sのポップな色づかいと大胆な構成で、憧れの地パリへ行くまでの道程に心躍ります。
木やバスはシンプルな形で描かれ、動物たちはなんとも愛嬌のある可愛らしい顔をしています。
デザインの美しさに見惚れて、見開きページごとにポスターにして飾りたいくらいです。
一見、色があふれているように見えますが、限られた色の反復で、画面構成も抑制が効いています。
たとえば、バスがたくさん密集しているシーンと、ぽつんと一つだけのシーン。テキストの配置も絵の一部のように見えます。あるいは、びっくりするほど余白が大きかったり、画面いっぱいに人物の大きな足が見えたりと、大胆なデザインは、主人公の気持ちと呼応して盛り上がっていきます。
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Henriくんを見守る気持ちと、自分もHenriくんと一緒に冒険している気持ちとが混ざり、感情移入してしまいます。
しかし、最後までHenriくんの顔は出てこないのです。

見るたびに新鮮な感動のある素晴しい絵本です。

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『Henri’s walk to Paris』
Saul Bass(デザイン) Leonore Klein(文)
Young Scott Books 1962年
SOLD

Uehara

2011 年 6 月 4 日 | comment
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ブキミ大好き

ジョン・ウォーターズ監督の著書『悪趣味映画作法』は、キワモノ好きの人なら必ず読むべき本だ。ゲロの王子と呼ばれるウォーターズの、トラッシュな映画への愛情と情熱が、涙(笑いの)なくしては読めないシロモノにしている。ウォーターズのキワモノぶりは、「ピンクフラミンゴ」の犬の糞を食う映画史上もっともラディカルなシーンや、変態ばかり出てくるキャスティングで証明済みだし、彼の他の作品どれを選んでも、彼がバッドテイストを心から愛しているのが分る。

キワモノの写真家と言えば、ジョエル・ピーター・ウィトキンをすぐに思い出すが、ウィトキンの写真は、彼のクールな外科医のような視線が、死体やフリークス達のテンションを下げ、秩序のある世界を構築しているので、異様なものを撮っていながら、そこまでブキミには感じない。

ブキミな写真を撮る第一人者といえば、ダイアン・アーバス、そして倉田精二だ。この二人がすごいのは、何気ない生活の写真でも異様に見せてしまうということだ。ダイアン・アーバスとは面識はないが(あたりまえ)、倉田精二とは、面識がある。昔、アルバイトしていたカフェで倉田さんと数回お話させていただいたことがある。彼の写真しか知らなかった僕は、恐る恐る話しかけたのを今でも覚えている。『FLASH UP』の表紙の写真を撮った男だけに、さぞかしVシネマ的な人かと思っていたら、全く正反対で凄くチャーミングな人物だった。しかし、そこは倉田精二、まるでドストエフスキーの小説に出て来そうな人物を地でいきそうなオーラや言動を感じさせ、サイコーだった。

アーバスと倉田精二を、外界に目を向けた開かれた世界への異様な思い込みだとすれば、それとは正反対の、閉ざされた密室で繰り広げられる悩ましいほどの自己破壊、自己再生をしているアーティストがいる。ギリシャ生まれのアメリカのアーティスト、ルーカス・サマラスによる世にも奇妙なセルフポートレートがそれである。

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サマラスのセルフポートレートの異様なテンションの高さや、何かをキメテるとしか思えないブキミな笑顔は、シンディー・シャーマンや森村泰昌のブキミさとはステージが異なっている。彼等(彼女)の作品は、知性に裏付けされた作品だけに、論理的な解答を導き出すのは、さほど困難ではないだろう。しかし、サマラスや、デヴィット・リンチ、吉田戦車などの作品を目の前にしては、僕たちは途方にくれてしまう。彼等の作品は、精神分析家にまかせて、僕らはその分らない何かを楽しむしかない。

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サマラスの作品に共通するマーブルな溶解のイメージは、昼の世界の秩序を崩壊させ、足下にある大地をぐらつかせる。夜、一人で部屋で何かに熱中している時、チーズが混ざり合うように僕たちは、何モノにでも同一化し快感を貪る。モウリヤックがいみじくも言ったように「一人でいるとき人間はみな狂人」を地でいくサマラスの行為は、誰もが一人でいるときに他人に見せられない何かを、少しだけ扉を開けて披露してくれる。この光景は世の親達が子供には絶対に見せたく無い光だ。

しかし、バッドテイストを一度味わえば何度でも試したくなる。ジャンクフードがやめられないのと同じだ。世の清潔すぎる作品、「パッチ・アダムス」や「サザエさん」なんかクソくらだ。そう、今こそ言える、「I fucking hate Forrest Gump」(失礼!)

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『SAMARAS ALBUM』 Lucas Samaras
初版 Whitnet/Pace 1971
¥24,800

 
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『80’s FAMILY』 倉田精二
初版 帯少イタミ JICC出版局 1991
¥63,000

 

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『MAGAZINE WORK』 Diane Arbus
HC カバー Aperture 1984
¥14,700

 

林 裕司

2011 年 2 月 12 日 | comment
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運命はどこで拓かれるか

ミュシャといえば、繊細で優雅な作風からアール・ヌーヴォーの代表的な作家であると誰もが思うだろう。ところが、ミュシャの子息が書いた伝記によると、ミュシャはアール・ヌーヴォーの中心地とほとんど関わりがなかったのだそうだ。ミュシャのイメージがひとり歩きしてあまりにも有名であるため、「知っている」と思って作品を見た気になっていたが、どのようにしてミュシャはアール・ヌーヴォーの時代を生きたのか辿ってみたい。

アルフォンス・マリア・ミュシャ。1860年イヴァンチッチェ(現在のチェコ)生まれ。ミュンヘンとパリで美術を学んだ。
1880年の終り、商業イラストレーターとしてパリに居を定めたとき、すでにパリではポスター制作における革新的で活発な動きでわきたっていた。ミュシャは挿絵画家としては認められるようになったが、相変わらず一文無しだった。

ミュシャを世に知らしめたのは、1894年のクリスマス、街にいた画家たちは休暇に出かけてしまい、友人に頼まれて校正をチェックしに印刷所に行ったのが運命を切り拓くきっかけとなった。クリスマスの朝から翌日の午後までかかって校正作業を終えようとしていると、印刷所にサラ・ベルナールから電話があり、元日までに舞台用のポスターが必要だという。当時は、印刷所がデザイン事務所のように、画家と契約して仕事を請け負っていた。ミュシャはポスターなど作ったことがなかったが、この時期、他に依頼できる人がいないということで、早速その晩、印刷所のマネージャーと一緒にサラの舞台を見たあと、すぐにアイディアをスケッチし、ポスター制作が始まった。(舞台のあと、相談しようと入ったカフェで大理石のテーブルに直接スケッチを描いた!)色をつけた完成作品を劇場に送り、28日にサラがスケッチを気に入ったと伝言があり、大急ぎで印刷を進めることになる。時間があまりないため、ポスターを上下に分け、石に上半分を描き、これを刷っている間に下半分を描いた。(ところがあまり急いでいたために、ミュシャが描きあげる前に職人たちが石を持っていってしまったそうだ。)そうして31日までになんとか印刷が終わり、吊るして乾かしているとき、マネージャーが様子を見に来た。

マネージャー:「ポスターはどうかね?」
   ミュシャ:「できました! 完成です!」
マネージャー:(顔色を変えて)「ああ! ごちゃごちゃじゃないか!サラはきっと受け取ら          ないだろう。あんなにいっぱい詰め込むやつなんかいやしない」

そのとき、劇場から催促の電話が入り、マネージャーはさよならも言わずに馬車に乗ってポスターを持っていった。

自分のためにマネージャーは面目を失うことを思うとひどく打ちのめされた気分になり、この制作のために費やした時間と労力、クリスマスも台無しになったことを悔やんだ。しばらく落ち込んでいたミュシャのところにマネージャーからすぐに劇場に来いとの電話。「叱られる」と思いながらも、劇場へ向かった。サラと顔を合わせるのは初めてだ。サラはミュシャのポスターの前で涙を拭いさることもできず立っていて、ミュシャが来ると抱いて喜んだそうだ。そして、サラ・ベルナールの舞台「ジスモンダ」のポスターでパリじゅうにミュシャの名が知れ渡り、それから6年間、サラとミュシャは一緒に仕事をするようになる。

大衆の熱狂的な反応はなおのこと、「ジスモンダ」のポスターは収集家用の作品となり、単なる広告から芸術作品となった。(写真はロートレック・コネクション図録より)
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ポスター芸術の先駆者トゥールーズ=ロートレックのような大胆で面白く人物を描くのとは違って、ミュシャの細部まで注意深く仕上げられたデッサンと淡くやわらかな色調そして精巧な装飾で彩る。

「アール・ヌーヴォー」は一時期「ミュシャ様式」と同義であったそうだが、ミュシャはアール・ヌーヴォーについて決して語らなかった。その代わり、いつも「私なりのやり方でやった」という言いまわしをよく使った。彼は自然から装飾的な要素を取り入れ、彼の祖国に対する熱い情熱で彼はその運動に独創的で純粋なスラヴ的な要素を持ち込めると確信した。アラベスク模様、波うつ髪の曲線など、空間を埋めるための装飾の使用―これらはすべてミュシャが空白を嫌い、一つの領域を分節し、分割し、同時に調和させることの必要性を感じたことから生じている。

産業革命以後、ゴシック様式やルネサンス様式は、電灯と鉄橋と飛行船や自動車とは合い入れなかった。ウィリアム・モリスが公表した考えは、当時の人々に対して持っていた革命的な意味が薄れ、「社会芸術」と解釈されるようになっていた。それに対して、詩人ジャン・ラオールが「大衆芸術国際協会」を立ち上げ、ミュシャもその会員となった。ラオールは、美に対する感受性を持たせ自分たちの環境を改善しようという意欲を植えつけるには、大衆は支配階級から芸術を受けねばならないと考えていた。ミュシャにとっては、理想的なモチーフを切望する気持ちを満足させるだけでなく、愛国的な気持ちもいつか取り上げられるだろうと確信していた。

アール・ヌーヴォーが一つの精神の中に合理的神秘主義と感情的社会主義を合わせ持ち、そのおのおのがそれ自体混乱を招くものだった。そんな中でアナトール・フランスは懐疑主義的であった。彼はかつてブーランジェ党員で、「すべての兵士にアベル・エルマンの『十字架の悲惨』という平和主義的な小説を持たせるように」とのシャルトル公の命令を賞賛したが、この本は厳しく批判され、焼かれてしまう。後に、ドレフュス運動が始まると、協会と陸軍に対して、ゾラと相並んで勝利を得た。
アナトール・フランスがヴァル・ド・グラース街を訪れたために、ミュシャは『CLIO』の挿絵を描くことになり、1900年にフランスから出版された。
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扉をめくると、「A EMILE ZOLA」(エミール・ゾラへ捧ぐ)となっている。出版されてから100年以上経った今でも、ミュシャの淡く美しい色調が生きる石版刷り。金色を配して優雅で色鮮やかな表紙絵。12点のリトグラフが入ったとても贅沢な一冊だ。
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clio5clio6イデオロギーの対立、パリ万博、世界大戦の始まりなど、世紀末の混乱した風潮のなかで、ミュシャが芸術を通じて目指していたことは、結局この会によっては達成されなかったようだ。その後、ミュシャはニューヨークへ渡ったのち、チェコの歴史をモチーフにした大作を構想、20年かけて<スラヴ叙事詩>を1928年に完成させた。そして、ミュシャは1939年に79歳で亡くなる。オーストリアの専制政治から自由になるのを目のあたりにしてきた彼の故国が、ドイツの侵攻によって新たな圧制の犠牲になって崩壊していくのと同じときだった。
後世から見ると、ミュシャの作風は広くアール・ヌーヴォーの特徴が見られるのでひとくくりに語られることが多いが、その時代を生きた人にとっては、アール・ヌーヴォーの様式を広めることよりも、もっと切実に、この社会において芸術が荒んできているのをなんとかしなければならないという意志が根本にあったようだ。そして、「ジスモンダ」のポスターを描いたときからずっと、ミュシャは祖国に対する愛を持ち続けていたのだと思う。

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『CLIO』 
Anatole France 挿絵:Alfons Mucha
MUCHA画 カラーリトグラフ12図入
HC 革装 少スレ Calmann Levy  1900年
¥147,000

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『ALPHONSE MUCHA PHOTOGRAPHS』
アルフォンス・ミュシャ Graham Ovenden編
HC カバー St.Martin Press  1974年
¥12,000

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『アルフォンス・マリア・ミュシャ 生涯と芸術』
ジリ・ミュシャ(イージー・ムハ)著
初版 カバー少ヤケ ドイ文化事業室 1988年
SOLD

Uehara

2011 年 1 月 21 日 | comment
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Adieu a XとAdieu au langage

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 赤い帽子を後ろにしてかぶり、眼鏡を掛け無精髭、デニムのシャツにパンツ、そしてスニーカー。髪の毛は長髪で後ろで結わいていて、帽子に隠れている。肩に掛けているのは、35mmのフィルムカメラ。日に焼けた肌には、深いシワが刻まれていて見るからに老人だとすぐ分る。今この男のポートレートを見て、いくつかの外見に関する特徴をあげてみた。

この男こそ、あの中上健次が「太陽に焼かれてアラビア人を撃ったムルソーのような、中平卓馬の指」と絶賛された指を持つ男、生ける伝説、歩く写真機、目になった男、中平卓馬の現在の風貌である。

お世辞にもこの写真からは、伝説の臭いも味もしない。中平を知らない人が街で彼と出会ったら、ちょっと暇な変わったおじいちゃんにしか見えないだろう。伝説の正体はこんなものである。しかし、彼の写真や文章、生きざまを一度でも見たり読んだりした事がある者なら、このちょっと変わった老人のポートレートから、何か考え深いものを感じざる得ないだろう。

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 中上健次が、1989年5月7日号の「ダ・カーポ」で写真集を100点満点で評価している興味深い記事で、並みいる写真集を押しのけて、79点の高得点を叩き出しているのは、中平卓馬の『A dieu a X ア デュア エックス』だけである。2番手の杉本博司の『SUGIMOTO』でさえ40点である。逆向きであるが、同じく徹底しているとして、この二人が評価されているが、点数の開きは歴然である。中上健次の挙げたこの二人が現在も写真家に限らず、さまざまなジャンルの人々に影響を与えているのは、当然の如く自明の事である。

写真集『Adieu a X ア デュア エックス』は、この後の写真集『hysteric six』へ行く可能性を含めた、解放感一歩手前のまだノイズ混じりのしかし、「アレ、ブレ、ボケ」には帰らない強い意志と、言語とイメージのギリギリのせめぎ合いを感じれる写真集である。現在のカラー縦位置の2枚セットの、イメージのスコーンとした抜けた写真へ行く前の段階の写真には、現在だからこそ読み取れるキーワードが含まれているに違いない。

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 今、最もラディカルに世界の断片を記録し続けているのは、中平卓馬とジャン=リュック・ゴダールだろう。この二人に続く者として映画監督のペドロ・コスタに期待したい。

先日、2010年最後の映画としてゴダールの『FILM SOCIALISME』を日比谷で観てきた、『アワーミュージック』から5年振りとなる新作で、全シーンHDカムで撮影されたその映画の、ノイジーで色が潰れてにじみ出たような決して美しいとはいえない映像の若々しさに、度肝を抜かれた。80歳にもなるゴダールの想像力と怒り、そして「NO COMMENT」という画面を覆う文字に、目眩にも似た感動を得た。

映画のパンフレットに収録されているルーノ・ドフランのインタビューで次回作は?と聴かれて(これで最後かも?)タイトルだけは決まっているとインタビューでゴダールが答えていた。そのタイトルは『Adieu au langage ア デュア ラングエッジ』。これを読んだ時すぐに中平卓馬の事が頭に浮かんだ。

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『A dieu a X ア デュア エックス』のXの答えは間違いなくLANGAGEであると僕は疑わない。この二人のXへの挑戦は挫折すると思うが、その負けっぷりに期待したい。

 

『ADIEU A X』  中平卓馬
初版 帯イタミ 河出書房新社 1989
28,000円

林 裕司

2011 年 1 月 7 日 | comment
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ELVIS PRESSのZINE、新入荷!

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『PAPER AND PEN, STORY』
STOMACHACHE.
初版1000部 1,260円

OGRE YOU ASSHOLEのPVやMALEGOATのCDジャケット、Shimokitazawa Indie Fanclubのメインヴィジュアル、YOUR SONG IS GOODのライブTシャツ等を手掛けたり、雑誌「STUDIO VOICE」、「真夜中」、「Spectator」に作品提供するなど、各方面で話題沸騰中の姉妹アートユニット、STOMACHACHE.の作品集。

2004年から2010年までに作成してきたZINEの収録作品やアートワーク、個展風景をまとめた集大成的1冊。

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ZINEとしては珍しく束があり、ペーパーバックのように軽い紙に、単色でもカラフルに見える印刷で、本として持っておきたくなる造りになっています。

http://stomachach.exblog.jp/

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『うつくしい知らせ』
會本久美子
限定250部 840円

「anan」「ku:nel」「Esquire日本版」等のカルチャー誌や、CDジャケット、YUKI「5Star」ツアーのライブ映像、ツアーTシャツに作品を提供するなど、東京を拠点に活躍中のイラストレーター、會本久美子によるZINE。

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2010年に開催した個展「うつくしい知らせ」の内容を中心に構成。開くとポスターになる帯付き。
http://emmm.exblog.jp/

 

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『GENMA NAHO』
源馬菜穂
限定150部 840円

ギャラリーでの精力的な展示活動やトーキョーワンダーウォール2009での入賞など、今後の活躍が注目されるアーティスト、源馬菜穂によるZINE。
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画面の中心に横たわる地平線。
ゆったりと流れる生き生きとした筆のあと。

ふっと、絵の中に意識が溶け込んでしまうような心地よさが漂う1冊です。

 

 

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『みんな君がしたこと It’s all in my mind』
YUTAKA KOBAYASHI  小林豊
限定150部 840円

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フォトグラファー、小林豊による最新ZINEは、パーソナルな感情と密につながる自然や日常の光景。穏やかな緊張感が流れる消失と再生の物語。
表紙に見える海の写真は、本体と同じサイズのポストカードになっています。

Uehara

2010 年 11 月 4 日 | comment
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この世を去ってもなお増え続ける詩人の足あと

2008年末に旅立った詩人のななおさかきの新しい詩集が出版され、現代詩手帖で特集も組まれました。
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ななおがこれまで3冊出した詩集の中の作品を年代別に並べ、さらに未発表の詩を加えたアンソロジー『ココペリの足あと(思潮社)です。 これまでの詩集に収録されていた作品も並び方が変わることによって、そこから見えてくる風景が変わりますし、晩年の未発表詩はリーディングでおなじみの「直立猿人」「自伝」「ほたるこい」などから、俳句や完全に未発表のものまで収められてます。

また盟友ゲーリー・スナイダーによるナナオについての「未来に発信する古代のヴィジョン」や、遠藤朋之氏による「ななおさかき小伝」ではななおの人物像にも描かれています。
装丁はななおの古い友人でもあるアニキこと高橋正昭さんで、持った時の紙の手触りも重視された詩集です。

また9月末発行の現代詩手帖10月号で「ななおさかきの地球B」という特集が組まれてます。
白石かずこさんの書き下ろしや、諏訪瀬島の盟友ナーガこと長沢哲夫さんがななおに捧げた詩も収録されてます。Flying Books店主の山路も、ななおの引越しの際の蔵書整理の想い出について執筆しました。

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現代詩手帖2010年10月号

ななおさかきの地球B
◎インタビュー
原成吉「詩の種を蒔くココペリ」
◎エッセイ
白石かずこ、長沢哲夫、石田瑞穂、山路和広
◎資料(遠藤朋之訳・解説)
ななおさかき+ゲーリー・スナイダー
ななおさかきインタビュー

どちらも新刊ですが、Flying Books店頭でも取り扱ってます。
是非チェックしてみてください。

歴史を振り返るとほんとうに偉大なアーティストは没後の評価されていることが多いと思います。ななおもその一人なのでしょうか。
自分の思うままに自由に生きたななおは既存のものさしでの評価などまったく意に介さないことでしょう。
ともかく一人でも多くの人にななおの詩、それ自体が破天荒で痛快なポエジーに満ちたななおさかきという詩人の生きざまを知ってもらえたらと思います。

K.Yamaji

2010 年 10 月 10 日 | 1 comment
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デオドラントされた風景(『TOKYO SUBURBIA』ホンマタカシ)

ここ数年、僕の頭から離れない一人の人物がいる。その人物とは今更ながらと思われる知れないが、自身の漫画の破天荒さよろしく交通事故に会い、現在も療養中のマンガ家岡崎京子である。岡崎マンガの発見は、ここ最近で最も刺激的な出会いである。

高校生のころ大阪でタコヤキライフを送っている僕が、TSUTAYAでレンタルしてきたヴェルヴェット・アンダーグラウンドのバナナジャケットのCDに入っていた名曲「Heroin」を聴いた時みたいに僕の頭をぶち抜いた。こっちはタコヤキ、向こうはヘロイン。自分の出生地を恨んだ。

岡崎マンガに出てくる、すぐSEXでも殺人でもしてしまう少女達の行動は、男の僕からしたらショックで信じられないし、信じたくも無い。毎回読むたびに胸が痛くなるし、乱暴に扱われる肉体を見るのはツライ。しかし、何故か何度でも読みたくなるのだ。岡崎京子が関係しているものなら僕は何でも読みたいし、不可能だと思うが新作も読みたい。ずっとスポーツに明けくれていた高校時代は、『東京ガールズブラボー』のような生活とは真逆で、運動して食べて寝るシンプルな生活だったが、もしその頃、岡崎京子の漫画に出会っていれば、違った毎日を送っていたのかもしれない。

『東京ガールズブラボー』中にに入っている日本の知のカリスマ、ニュー・アカデミズムの雄、スキゾキッズことブリリアントな浅田彰と岡崎京子の対談の中で浅田は「常に押し寄せてくる興奮や、高揚感、そしてそれと裏腹にいつもある使い捨てられることへの寂しさ」と岡崎マンガの特徴を的確に説明している。

そんな岡崎京子の作品世界と、同時代の空気を表している写真家が、ホンマタカシである。

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東京の郊外を見事にサッパリとタンタンと撮影し、木村伊兵衛賞を射止めた写真集、『TOKYO SUBURBIA』は、日本の写真のこれまでのイメージを変えた。そこに写っている風景は、『突破者』を書いたアウトロー作家宮崎学なら、「デオドラントされた風景」と言うだろう。漂白されてサッパリしている明るい街路は、なんらスペクタクルや、決定的瞬間は無く、いつでも、どこにでもありそうな風景が続く写真集。発売当時、大阪のLOGOSで僕はこの写真集を買おうか迷い、何度も店を訪れたのを思い出す。

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岡崎京子とホンマタカシは、ホンマの初めての写真集『Babyland』での対談でその共通点を確認し合っているように伺える。ホンマ「本当はもっと濃く焼けるんです・・・」岡崎「やっぱりサッパリが好きなんだ・・・」この対談の中でのサッパリと言う言葉に、これまでの写真家や、マンガ家との感覚の違いを双方に感じる。あえて岡崎とホンマの違いを言えば、岡崎の持っている壊れた感じや絶頂感を、ホンマの作品には感じられない、しかし、あくまでも冷静なホンマの客観的な視線には、瞠目させられる。

ホンマは常に、暗室とかにこだわりが無いと言っているし、めんどくさいとも言っている。今では、ホンマは写真界の巨匠に成りつつあるが、今もそのスタンスは変わってない。アサヒカメラで毎号行われている対談の中での発言もその内容に変化は見られないが、ある写真家の広島での仕事についての会話で、歴史的なものや政治的ことに対して「ダサクテモやらなきゃいけないのかな」と発言しているのに僕は興味を覚えた。

ホンマタカシの写真集の頂点は『TOKYO SUBURBIA』でまちがいないが、今後これを超えるような物を見てみたい。ダサクテモいいじゃないですか。

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『TOKYO SUBURBIA』
ホンマタカシ
初版 付録付 光琳社 1998年
¥38,000

林 裕司

2010 年 9 月 28 日 | comment
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